さみしさをつまんで、くちにいれる【軽率に生きる日】

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人を好きになるって、なんだ。と思う。

偶然、ほんとうに偶然になんとまあ異性と結婚した自分だけれど、過去の地続きとしての自分と分断される気持ちが、なかったとは言えない。

夫と結婚する際に、その喜びの端っこで「わたしの性的マイノリティとしてのアイデンティティはどこいくんだ」と恐怖していた。非常にわかりやすい自分へのレッテルを失うことへの恐怖。これはおそらく学歴や肩書きや役割にも置き換えられるものだろう。わたしの場合は「ほぼほぼレズビアン」として生きてきた学生時代の自分と別れる場面のように見えて仕方なかった。

「普通のひとになっちまう」

高校生の頃、図書館で同性間のパートナーシップについて書かれた本を端から引っこ抜いた当時の自意識が、「異性と結婚します!」という事実のもとで完全にうずくまっていた。というより、うなだれていた。

なぜ男性なんだろう。なぜ男性を好きになってしまったんだろう。生物学的に女である自分がそう思うことも自分から見ておかしみがあったのだけれど、自分の思う自分が映し出された鏡の前で、現実の自分が立ち尽くしていた。

立ち尽くしたまま「おかしいな」「あれれ」と思う間に子(ら)ができた。

わたしは自分自身が子育てに向かないだろうと常々思ってきたのだけど、夫は子どもが欲しい人で、そして自分はなぜか結婚の前後で「夫の遺伝子と自分の遺伝子が混ざったら面白かろう」と納得してしまった。遺伝子というより、人生かもしれない。夫とわたしが育てた、ふたりの人生の混ざった人間が見てみたかった。人間、であることが大事に思えた。

若いのに思ったように妊娠しなかったので特別養子縁組でもしようかと調べ始めた頃に子ができ、お腹が大きくなった。

あるとき、夜になりそうな空気の中で夫と歩いて家に向かっていた。我々は普段から手を繋いで歩く我々であるから、自然に普通に手を繋いで歩いていた。

ふと、言ったことのないことを言ってみたくなった。

「あなたと結婚するにあたって、わたしの同性愛者としてのアイデンティティがぶっ壊れた」

夫は、真面目なわたしの顔を見て年に何度かの大笑いをした。涙も出ていた。

「同性愛者であることって、アイデンティティだったんだ!」と笑った。ひーひー言っている。

ちょっと待ってちょっと!アイデンティティ大事でしょ?大事だよね?自分が自分でなくなる気がしたんだよ!だってそもそもなんでこんな男性らしい男性を好きになるんだ自分!っていう自分の崩壊が起きてるわけで!なにがそんなに笑えるの!?と抗議したけれど、

「あー面白かった」と言う。そして

「アイデンティティ、今は大丈夫?」と涙目で言う。

「大丈夫に決まってんだろ!」とやさぐれて答えた。

そして、ああ自分って大丈夫なんだ、と気付いた。

わたしがわたしらしさについて思うとき、一番に性嗜好や性自認についての考えが浮かぶ。

けれどこの出来事は、「大丈夫に決まってんだろ」な自分は、考えや論理でなく、感じたままの自分だった。いやあるいは、半歩先の未来の自分だった。

いやだな、と思う。

人とともに生きるせいで、勝手に自分が生きていってしまう。自分の勝手に定めていた範囲から軽々と出て行ってしまう出来事があるから。だから人と生きることをやめられない。

自分が自分でいることが尊くて軽々しくて泣きそうだ。

いやだな、だって少しさみしい。自分が自分でしかないことは少しさみしい。冬の朝のようなさみしさがある。

そのさみしさを毎日ひとつつまんでは、ちょこっとずつ飲み込んで歩いていく。あんがい、まずくはないんだよ、全然。

そういうことを、今日、今夜、思う。

お題:なし

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